年次別データベース

年次別データベース

第一期(1945~51年) 

発表曲名作詞者作曲者
1946.2鬼の哭く桑名茗車木野普見雄
1946.2独り息づく桑名茗車木野普見雄
1946.6原子爆弾に寄せる譜山田耕筰
1946.8歌謡ひろしま山本紀代子古関裕而
1946長崎復興音頭大串邦雄木野普見雄
1946広島復興音頭村山洋
(補作:葛原しげる)
岩田真次
1946平和広島島原帆山
1947.8永久に生きむ島内八郎木野普見雄
1947.8ひろしま平和の歌重園贇雄山本秀
1947.8ああ学徒群須田伊波穂木野普見雄
1947.8憶うこと有富星葉木野普見雄
1947.8新天地・平和音頭不詳不詳
1948.8ヒロシマの歌大木惇夫乗松昭博
1948.8基町音頭益井昭夫山本寿
1948新ひろしま音頭粟村純造不詳
1948夏雲島内八郎木野普見雄
1948鳩と虹大木惇夫山田耕筰
1948広島復興の歌藤井啓市山本寿
1948復興小唄木下春男不詳
1948平和を讃える三つの歌湯川秀樹・斉藤茂吉・永井隆山田耕筰
1949.5しらゆりおとめ永井隆木野普見雄
1949.7長崎の鐘サトウハチロー古関裕而
1949.8ヒロシマエドモンド・ブランデン
(訳:寿岳文章)
山田耕筰
1949.8ヒロシマ平和都市の歌大木惇夫山田耕筰
1949.8平和の誓島内八郎木野普見雄
1949.8平和は長崎から島内八郎木野普見雄
1949.10武器ウギ三木鶏朗三木鶏朗
1949.11あの子永井隆木野普見雄
1949.11交響曲第2番「ヒロシマ」エルッキ・アールトネン
1949.12南天の花永井隆山田耕筰
1949新長崎音頭・ばってん音頭宮村有人木野普見雄
1949新長崎文化音頭編:長崎市学務課木野普見雄
1949復興の歌植田鈴子木野普見雄
1950.9水の精へのセレナーデ大澤壽人
1950広島ヤッサ吉田文五不詳
1951.5しろばらの永井隆山田耕筰
1951.8子らのみ魂よ島内八郎木野普見雄
1951.8長崎の十字架渡辺春夫坂田敬一
1951.11交響詩「広島」木下夕爾宮原禎次
1951.11遠き日の原民喜團伊玖磨
1951ああ此の涙をいかにせんサトウハチロー古関裕而
1951本曲「平和の山河」中尾都山
  • 関連トピック

広島・長崎に原爆投下(1945.8)
GHQ(連合国軍総司令部)プレスコード発令(1945.9)
広島・長崎に白血病患者出はじめる(1946.5)
米、ビキニ環礁で原爆実験(1946.7)
米国学士院=米国学術会議の原子爆弾調査委員会が広島日赤病院で被爆者の調査始める(1946.11)
日本国憲法施行(1947.5)
広島市で第1回平和祭(1947.8)
天皇広島を訪問(1947.12)
被爆3周年「ノーモアヒロシマズ」「世界平和は広島から」のプラカードを掲げ広島市民が市内をデモ行進(1948.8)
大田洋子『屍の町』占領軍の検閲で一部削除(1948.11)
極東国際軍事裁判、東条英機ら7人に絞首刑(1948.12)
パリとプラハで第1回平和擁護世界大会(1949.4)
長崎で被爆した医学博士永井隆の病床記録『長崎の鐘』が話題になる(1949.5)
天皇長崎を訪問(1949.5)
広島平和記念都市建設法公布(1949.8)
長崎国際文化都市建設法公布(1949.8)
ソ連原爆実験(1949.8)
湯川秀樹ノーベル賞受賞(1949.11)
丸木位里・赤松俊子連作「原爆の図」発表(1950.2)
第4回平和祭中止(1950.8)
原民喜自殺45歳(1951.3)
広島原爆被害者更生会結成(1951.8)
峠三吉『原爆歌集』刊行(1951.9)
日米安全保障条約調印(1951.9)

  • 概要(『ヒロシマと音楽』から)

 被爆直後から1951年までを第一期とする。何故なら1952年に対日講和条約が発効して、日本は一応独立することになり、政治的に一つの節目を迎えるからである。それまでの占領期間中、プレスコードの名の下に、アメリカ占領軍は原爆の被害を日本国民にできるだけ知らせないように努めたと言われている。「原爆」は禁句だったとも言われている。したがって、音を介する表現分野にも大きな拘束力を持ったであろうことは想像に難くない。そのような中、1945年の11月に、長崎で被爆した木野普見雄が、早くも〈独り息づく〉という歌曲を作曲している。この曲が、今のところ広島と長崎を通して初めての原爆音楽といえるだろう。木野氏はその後も精力的に長崎をテーマにした曲を15曲ほど作曲している。
 翌1946年からは、広島市や地元の報道機関などが中心となって、いち早く復興や平和をテーマにした歌詞の募集を始めている。広島市は当選者二人(藤井啓市、吉井清雄)による「復興の歌」の作曲を専門家(紙恭輔、渡邉弥蔵)に依頼し、市民の意欲高揚に努めている。地元の中国新聞社が被爆一周年を記念して募集した「歌謡ひろしま」は、復興の意欲に燃える老若男女の市民に愛唱されることを願って、8月9日付の同紙に楽譜付きで発表された(山本紀代子作詞、古関裕而作曲)。また、中国新聞社と日本文化平和協会の主催による「平和の歌」懸賞募集には、全国各地から一万二千通余りの応募があり、一等入選作「空はばら色明け渡る」(丸山静作詞)が、1948年8月、「平和の歌発表音楽会」で華やかに披露されている。1949年には、広島県教育委員会も、「広島復興音頭」を選定している。これらの歌が当時どれだけ人びとの間で歌われたかは定かではないが、音楽が窮地にあえぐ市民の心を少なからず潤し、力づけたことには間違いないだろう。
 一方、被爆翌年の夏には、供養盆踊り大会や英豪軍軍楽隊による激励と慰安の演奏会など開かれているが、1947年からは8月6日に平和祭の式典が挙行されている。1947年には広島平和祭協会が設立され、同協会が公募した「平和の歌」の歌詞の中から重園贅雄の入選が決まり、その作曲を山本秀が担当した。〈平和の歌〉は同年の平和祭式典の中で市内男女生徒により合唱されたが、その後今日に至るまで、広島を代表する歌として人々の間に広く歌い継がれている。1948年の式典では〈ヒロシマの歌〉(大木惇夫作詞、乗松昭博作曲)が発表され、1949年には、〈ヒロシマに寄する歌〉(エドモンド・ブランデン作詞、寿岳文章訳、山田耕筰作曲)と、〈広島平和都市の歌〉(大木惇夫作詞、山田耕筰作曲)がいずれも発表された。これらの歌は、広島平和祭協会が主催する「平和音楽会」でも演奏されている。焦土と化した広島で音楽が早くも産声をあげた背景には、当時の浜井信三広島市長の並々ならぬ努力があったことは余り知られていない。浜井市長は、1948年の平和祭では騒々しい行事は一切取りやめ、文化に恵まれない市民への贈り物として、音楽会と美術展の二本に絞って行事を企画したという。これらの活動が刺激となって、次第に広島の地に文化活動が根づいていくことになる。
 この第一期の6年間には、約20曲余りの原爆音楽が個人の手によって書かれているが、中でも作曲家として名高い山田耕筰が広島に想いをよせ、五曲も作品を残しているのが注目される。その中の一曲〈原子爆弾に寄せる譜〉は、早くも1946年に作曲され、地元の葉室潔によりバレエに振付け発表された。
 原爆が日本を代表する音楽家、山田耕筰の心を捉えたものは何であったのか。『山田耕筰全集』を紐解いてみると、楽譜の合間に同氏のエッセイが挿入され、それらの作品の創作動機を知ることができる。

「終戦の秋の暮れであった。私は中国から九州一円にわたる演奏の旅を続けた。その時、私は原爆に壊滅した二つの町をみた。それは地獄の絵図そのままの身の毛もよだつ風景であった。その強烈きわまる印象に激しくも撃たれた私は何とも言い表し得ぬ気に圧されて、3年の歳月をただ無為に過ごして来たのである。しかし私の胸に蒔かれた感銘の種は、知らぬ間に新しい創作の芽生えとなって私の心に蘇生した。(以下略)」 (後藤暢子編『山田耕筰全集』第九巻 春秋社、1989年、14頁)

 1946年6月27日付の中国新聞紙上には、「楽譜に躍る悪夢の再現」という見出しで、〈原子爆弾に寄せる譜〉を作曲した経緯が紹介されている。「いたましい犠牲者の音楽法要をするとともに、世界的文化都市として復興にあたっている市民に対する激励ともしたい。」という同氏の想いは、心あたたまる贈り物として広島市民の心に届いたに違いない。同じような想いは、詩人西条八十の胸中をも動かしたようで、1951年2月9日付の同紙上には、広島の歌を作詞するため広島を訪れた同氏の意気込みが報じられている。
 この時期には、ほかに合唱曲〈遠き日の〉(原民喜作詞、團伊玖磨作曲)、交響詩〈広島〉(木下夕爾作詞、宮原禎次作曲)、などがあるが、いずれも悲惨な原爆体験を訴えるものである。後者の演奏を担当したのは広島放送管弦楽団であるが、広島放送合唱団とともに、地元のNHK広島中央放送局が果たした役割はきわめて大きい。

第二期(1952~63年)

発表曲名作詞者作曲者
1952.9ノー・モア・ヒロシマズ陶野重雄
1953.2ほほえみよ還れ佐古美智子小林三千雄
1953.5原爆乙女の歌島内八郎木野普見雄
1953.5カンタータ「長崎」持田勝穂森脇憲三
1953.8ああ広島の鐘は鳴る鈴木政輝吉田正
1953.8川の華鬘米田栄作星出敏一
1953.8平和おどり西岡水朗木野普見雄
1953.10映画『ひろしま』テーマ音楽伊福部昭
1953.11交響曲第5番「ヒロシマ」大木正夫
1953.12広島によせて坂本勉
1953ああ原爆の思い出豊岡やす子
1953先生のやけど不明宗像和
1954.4あゝ広島に花咲けど坂口淳吉田正
1954.7原爆を許すまじ浅田石二木下航二
1954.8幾万の白島きよ古関裕而
1954.8爆風に小堺吉光古関裕而
1954.8虫の声越智もん古関裕而
1954.8交声曲「長崎」島内八郎伊藤英一
1954.9甦る廣島三宅辰美林光
1954.11平和こそわれらのものくぼききょうた木下航二
1954.11水爆犠牲者を忘れるな関西合唱団関西合唱団
1954.11誓い北城さなえ宅孝二
1954.11アジア平和行進曲野間宏小林秀雄
1954.11主婦のうたごえ北條まこと宅孝二
1954.12誓い宗像和宗像和
1954世界の声北川幸比古林光
1954そうらん節替え歌
1954八木節替え歌
1955.1怒りの胸増岡敏和木下航二
1955.2平和はよみがえる島内八郎寺崎良平
1955.3悲しみに苦しみに阿部静子村中好穂
1955.7交響風物詩「未来にまでうたう歌」米田栄作市場幸介
1955.8ちちをかえせははをかえせ峠三吉村中好穂
1955.8夏雲は何も言わねど石本美由起上原げんと
1955.8わが故郷増岡敏和村中好穂
1955.8腐臭の原黒岩鉄雄木野普見雄
1955.8平和祈念像の歌向井学寺崎良平
1955.8平和祈念像を讃える歌松永雅子寺崎良平
1955.8デルタの歌米田栄作吉田盈照
1955.8水爆反対節佐藤広志佐藤広志
1955.8死んだ女の子ナーズム・ヒクメット
(訳:飯塚広)
木下航二
1954.8?ピカドンゆるすな、ヒロシマを忘れまい伊藤徳次郎小林秀雄
1954.8?広島のうたごえ増岡敏和村中好穂
1955.8?友よ馬場均関忠亮
1955.8?原爆反対のうた伏木甲子伏木甲子
1955.8?平和のとりでいずみたくいずみたく
1955.8?元気な子供中央合唱団小林秀雄
1955.8?青年行進曲小西将己寺原伸夫
1955.8?世界中のともだちよ宗像和宗像和
1955.8?青年行進曲小西将己和智操一郎
1955鳩笛浅田石二村中好穂
1956.8交響曲「広島の街は甦る」米田栄作田中敬
1956.8生きていてよかった阿部静子村中好穂
1956.8広島・長崎村中好穂村中好穂
1956.8平和行進の歌島内八郎木野普見雄
1956.8いのち焼かれまじ黒岩鉄雄木野普見雄
1956.8あすの歓びを黒岩鉄雄木野普見雄
1956.11原爆の基地を許すまい村中好穂村中好穂
1956.11母なればこそ阿部静子村中好穂
1956父をかえせ母をかえせ峠三吉多湖功也
1956遠い昔の水野潤一水野潤一
1957.7人よ清水高範西岡敏雄
1957.8交響組曲「広島―1957年」市場幸介
1957.8光は日々に新しく山田迪孝田中敬
1957.9雨の朝です関村喜久木下そんき
1957.9水爆はいやだ門倉詇いずみたく
1957.9爆心地の鳩小野十三郎宗像和
1957.9我等の願い稚野和英いずみたく
1957.12明日はぼくらのもの窪田享関忠亮
1957明日の日のためにレフ・オシャーニン
(訳詞:合唱団白樺)
アナトリー・ノヴィコフ
1958.1交響詩「雲」米田栄作古屋良男
1958.2歌曲集「原子野」福田須磨子木野普見雄
1958.6水ヲ下サイ原民喜林光
1958.6憎しみよ輝け新宿合唱団木下そんき
1958.8原子戦争ないように大江将精木下そんき
1958.8原爆の子和田享子波多野正己
1958.8声高く築城由二芥川也寸志
1958.8この声きけ関忠亮関忠亮
1958.8千羽鶴に捧げるレクイエム米田栄作山崎登
1958オラトリオ「長崎」米田栄作ほかアルフレート・シュニトケ
1959.1明けゆく長崎北村西望寺崎良平
1959.5原爆の若妻不詳不詳
1959.5幻想曲「カンナ」大島寿一諸井昭二
1959.5主題と変奏峠三吉岡田和夫
1959.5原民喜おきはるを
1959.8愛の歌山田迪孝宮原禎次
1959.8長崎の兄妹野村俊夫古関裕而
1959雲が人々を殺さぬようにナーズム・ヒクメット(訳:角田勇)岡田京子
1959つぶやきをささやきを声にしよう窪田享小林秀雄
1959ヒロシマ関鑑子マトヴェイ・ブランテル
1959平和行進石原祐子・岡山合唱団石原秀雄
1959平和のちかい木下そんき木下そんき
1959平和を祈り御霊をしずめん大木惇夫西岡敏雄
1959むかし空は金森久城関忠亮
1960.3ヒロシマのオルフェ大江健三郎芥川也寸志
1960.3花には太陽を子供らには平和を木下そんき木下そんき
1960.8御魂よ、地に泣くなかれ不詳
1960.8平和の歌不詳
1960.9ひろしまは清水高範西岡敏雄
1960.12私は広島を証言する八島藤子尾上和彦
1960国民平和行進をうたう岩田光広鈴木敏夫
1960ズボニー・ナガサキズエニエック・ウヘリール
1960ふりそそげ春の日木下そんき関忠亮
1960みんなの指で字を書こう岩田宏林光
1961.6折鶴むねに川路隆示寺原伸夫
1961.8太田川物語三宅辰美仲勇吉
1961.8空はいつも流れている清水高範永井主憲
1961.8巷塵米田栄作升田徳一
1961.9広島の犠牲者に捧げる哀歌クシシュトフ・ペンデレツキ
1961.9原爆の碑によせて原爆慰霊碑面宗像和
1961.12グランド・カンタータ「人間をかえせ」第Ⅰ部峠三吉大木正夫
1961平和行進の歌近藤めぐみ谷口武士
1962.33月1日の歌焼津青年合唱団泉三吉
1962.4いますぐ世界に平和を中央合唱団木下航二
1962.4神よ原子爆弾を降らせ給うなチャールズ・ミンガスチャールズ・ミンガス
1962.5へいわをかえせ峠三吉宗像和
1962.5平和のために中央合唱団川路隆示
1962.5広島は許さない中央合唱団寺原伸夫
1962.7久保山愛吉の墓碑銘(訳:ギュンター・アンデルス)ヘルベルト・アイメルト
1962.8交声曲「街は生きている」清水高範横山青二
1962.8生命と愛の歌ギュンター・アンダース
ヘスス・ロペス・パチェコ
チェーザレ・パヴェーゼ
ルイジ・ノーノ
1962.8挽歌清水高範千葉修也
1962.8折鶴森田八重子木下航二
1962.11組曲「瀬戸内」宮下秀冽
1962.12平和こそ世界の守り中央合唱団関忠亮
1962アメリカ帝国主義をたたきだせ荒木栄荒木栄
1962平和・ひろしま・愛のまち夢丘薫山内秀夫
1963.5ぐんとつきだせみんなのこぶし日本のうたごえ実行委員会関忠亮
1963.8グランド・カンタータ「人間をかえせ」第Ⅱ部峠三吉大木正夫
1963.8ひろしままきごろう前田和男
1963怒りを胸に中央合唱団中央合唱団
1963怒りを炎に中央合唱団中央合唱団
1963おいらはタンポポ不詳不詳
1963原爆をつくるな不明さわむら・たかし
1963祖国に平和を高川文子伊勢うたごえ教室
1963団結かたく全国創作会議、大西進大西進
1963広島に集まろう広島合唱団広島合唱団
1963広島へ行こう林学林学
1963平和のうた森田ヤヱ子大西進
1963ポラリスくるな第二回全国創作会議第二回全国創作会議・林学
1963Uに贈る悲歌原民喜林光
  • 関連トピック

エリザベト音大短期大学部開校(1952.4)
『アサヒグラフ』原爆被害写真初公開(1952.8)
国際医師会議(ウィーン)で草野信男が原爆被害の実態を報告(1953.5)
広島平和国民大会に7600名参加、平和宣言を採択(1953.8)
ソ連初の水爆実験(1953.8)
日教組製作映画『ひろしま』公開(1953.8)
米原潜ノーチラス号進水(1954.1)
第五福竜丸、ビキニでの米水爆実験により被災(1954.3)
原水爆禁止署名運動全国協議会結成(1954.8)
世界平和記念聖堂完成(1954.8)
第五福竜丸、無線長・久保山愛吉氏死去(1954.9)
「原爆許すまじ・1954年日本のうたごえ」開催(1954.11)
世界平和協議会、原子戦争準備に反対するウィーンアピール発表(1955.1)
東欧7カ国、ソ連とワルシャワ条約調印(1955.5)
「ラッセル=アインシュタイン宣言」発表(1955.7)
第1回原水爆禁止世界大会広島大会開催(1955.8)
長崎平和祈念像除幕式(1955.8)
広島原爆資料館開館(1955.8)
原水爆禁止日本協議会(原水協)結成(1955.9)
衆議院、原水爆実験禁止要望決議案を可決(1956.2)
長崎で第2回原水爆禁止世界大会(1956.8)
映画『生きていてよかった』完成(1956.8)
広島原爆病院開院(1956.9)
衆議院、原爆障害者の治療に関する決議案を採択(1956.12)
原爆被爆者医療法施行(1957.4)
日本学術会議、原水爆実験禁止を決議(1957.4)
イギリス、クリスマス島で第1回水爆実験(1957.5)
茨城県東海村の原子力研究所に第1号原子炉が完成(1957.8)
ビキニ記念共同行動デー(1958.3)
ソ連、核実験の停止声明(1958.3)
原水爆禁止を訴える広島・東京間1000キロ平和行進出発(1958.6)
米・英、核実験の条件つき1年間停止を発表(1958.8)
ビキニ被災5周年・原水爆禁止・核武装反対国民大会(1959.3)
原水協『原爆被害者白書』発表(1959.6)
仏サハラで第1回原爆実験(1960.2)
新安保条約発効(1960.6)
池田勇人内閣成立(1960.7)
米、ケネディが第35代大統領に当選(1960.11)
被団協「被爆者援護法要求国会請願大会」初のデモ行進(1961.2)
池田首相、米大統領ケネディに核実験停止要請の親書(1962.3)
第8回原水爆禁止世界大会、ソ連の核実験再開をめぐり大会は混乱、分裂状態で解散(1962.8)
社会党・総評など原水爆禁止運動連絡会議を結成(1962.12)
ビキニ被災9周年集会焼津全国集会中止(1963.3)
米・英・ソ三国、部分的核実験停止条約調印(1963.8)
広島市民交響楽団スタート(1963.10)
東京地裁、原爆訴訟に対し「原爆投下は国際法違反だが損害賠償請求権はない」と判決(1963.12)

  • 概要(『ヒロシマと音楽』から)

 講和条約が発効し、表現への制約も緩和されるにつれて、原爆被害の実相が次第に明らかになる時期である。この時期に入ると、これまでの原爆に対する間接的な怒りや悲しみの表現が、直接的な表現に一変していく。曲のタイトルを見ても、〈原爆を許すまじ〉〈ピカドンゆるすな、ヒロシマ忘れまい〉〈この声聞け〉〈父をかえせ、母をかえせ〉のように、怒りをあらわにした作品が増えてくる。このような声は、この時期の原水爆禁止運動の高揚と平行して、ますますトーンが高くなっていくのがわかる。音楽面ではわが国のうたごえ運動の台頭も無視することはできない。今では原爆音楽の代表作として知られ、歌われる機会も多い〈原爆を許すまじ〉(浅田石二作詞、木下航二作曲)は、そのような背景から生まれた歌である。作曲は1954年となっているが、この年の3月にはビキニ被災事件があり、核兵器に反対する国民運動が大きく盛り上がった年である。この歌は同年の8月に広島市の本川小学校で催された平和運動全国協議会の席上で発表されたが、このような集会の度に歌われて、運動を発展させる大きな原動力にもなったのである。その後ワルシャワで開かれた「第5回世界青年平和友好祭」の国際文化コンクールの作曲部門で上位入賞を果たし、6カ国語にも翻訳されて、まさに「世界の歌」としてさらに拍車をかけることになった。これは歌の持つ心情と運動とが直接結びついた典型的な例といえるだろう。〈原爆を許すまじ〉は、後に外山雄三により、弦楽四重奏曲としても生まれ変わっている。
 音楽で広島の被災者たちを慰めたいという願いから、海外の音楽家たちもヒロシマに目を向け始めている。フィンランドのアールトネンが自作の交響曲《ヒロシマ》を指揮者の朝比奈隆に託したのがきっかけで、被爆10周年を迎えた1955年、関西交響楽団[現:大阪フィルハーモニー管弦楽団]により初演された。また、ソ連のピアニスト、セレブリヤコフは演奏旅行の途中広島に立ち寄り、自作の〈広島市民へ捧げる曲〉を披露している。一方、国内では、この時期に原爆音楽の大作が次々に生まれている。代表作に《交響曲ヒロシマ》《交響的幻想曲ヒロシマ》(大木正夫作曲)、〈未来にまで歌う歌〉(米田栄作作詞、市場幸介作曲)、〈原爆小景〉(原民喜作詞、林光作曲)、グランド・カンタータ《人間をかえせ》第一部・第二部(峠三吉作詞、大木正夫作曲)などがある。これらの作品には、原爆の悲惨さや怒り、悲しさを原爆詩に託してきわめてリアルに描いていく姿勢と、原爆というテーマを共通感情として一般化し、訴求力を高めていく姿勢を見ることができる。また、大木正夫のように、自らのライフワークとして、大衆の平和の歩みを音楽芸術に具現するような作曲家も現れた。

第三期(1964~76年)

発表曲名作詞者名作曲者名
1964.6死んだ少女ナーズム・ヒクメット(訳:峯俊夫)清瀬保二
1964.12アメリカは帰れ赤木三郎、中央合唱団関忠亮
1964けがすな平和の海を神奈川のうたごえ(補作:窪田亨)木下そんき
1964八月の歌伊藤時生伊藤時生
1964ヒロシマ・ナガサキ大西進大西進
1964平和ばやし桑山守桑山守
1964星の一つにこけしの会上原げんと
1964焼津から呼びかけよう田中照久菅谷厳
1964焼津にいこう森田ヤヱ子滝三郎
1965.4ザ・パイロット宮本研増見利清
1965.6原爆の子の像石本美由起遠藤実
1965.6平和のともし灯石本美由起遠藤実
1965.7ああヒロシマ小堺吉光寺西敏雄
1965.7かえらぬねえちゃん草野哲夫林学
1965.8原子野長崎うたごえセンター創作班長崎うたごえセンター創作班
1965.8広島市歌西村福三清水脩
1965.8ああ広島和泉たくみ小林よしのり
1965.8組曲「長崎」長崎うたごえセンター藤本洋
1965.9組曲「ひろしま」持田勝穂森脇憲三
1965人間を返せ岡本文弥
1965ふるさとの空の下に美輪明宏美輪明宏
1966.6ひろしまから東京都原爆被害者団体協議会東京のうたごえ、東京都被団協
1966.8八月の祖国八代信鈴木克
1966.9花をささげる土井大助宗像和
1966.9三つの悲歌横江千鶴子、はらみちお、坂村真民安達元彦
1966.11組曲「川」栗原貞子永井主憲
1966.11原水爆禁止のうた中根治中根治
1966核武装の島の被爆者大橋善一中村はじめ
1966にんげんをかえせ峠三吉三戸頼雄
1966花をささげる土井大助外山雄三
1966ヒロシマ豊田勇造豊田勇造
1966ヒロシマの花エディタ・モリスJ.K.フォーレスト
1966Bura Buraコレット・マニーコレット・マニー
1967.7泣くな長崎高波藤夫深町一朗
1967.8広島の鐘益田玲助木戸全一
1967.8映画『原爆の図』岡田和夫
1967.10恵の丘石川和子石川和子
1967.11八時十五分の祈りの歌小堺吉光松村浩
1967あゝヒロシマ和泉たくみ小林よしのり
1967オラトリオ「ヒロシマを繰り返すまじ」ミハイル・マトゥソフスキーユーリ・レヴィチン
1967カンタータ「土の歌」大木惇夫佐藤眞
1967スレノディマリー・シェーファー
1967黙示木原孝一清水脩
1967われらの隊列吉岡きよし多泉和人
1968.8八月の太陽浅尾忠男菱田晴夫
1968.9晴着の娘中西英治中西英治
1968.9われなお生きてあり福田須磨子木野普見雄
1968怒りの日原民喜、山田数子宗像和
1968映画『ヒロシマの証人』安達元彦
1968原爆の母飯山栄浄東山富士夫
1968白い血辻端力笹本二郎
1968遠い呼声栗原貞子仲俣申喜男
1968平和行進の歌田部正行勝山不二
1968やすらかに白南風凪砂笹本二郎
1969.8夾竹桃のうた藤本洋大西進
1969.9ヒロシマのこえ土井大助矢沢保
1969.10僕、生きたかった名越操小野崎孝輔
1969ヒロシマの空は窪田聡窪田聡
1970.3交響曲「炎の歌」土井大助外山雄三
1970.5譚詩「黒い雨の日の広島」佐藤正二郎
1970.5ヒロシマの子守唄中西英治中西英治
1970.8ひろしまの歌深沢一夫渡辺浦人
1970.9百日紅正田篠枝星野健
1970.9レクイエム・シャーンティ早川正昭
1970.10レクイエム「碑」薄田純一郎森脇憲三
1970国中ひとつに大西進大西進
1970弦楽四重奏曲第2番佐藤敏直
1970福竜丸は生きていた森田ヤヱ子三条場康則・高平つぐゆき・熊谷賢一・赤嶺成輝
1970三つの行進曲栗田素江、藤井ゆり、坂本明子安達元彦
1970モテット「命の歌」正田篠枝安達元彦
1970レクイエム「父よ」荒木博美熊谷賢一
1971.1八月の歌Ⅰ草間透、山田数子、原民喜本間雅夫
1971.3日ノ暮レチカク・夜原民喜林光
1971.5生ましめんかな栗原貞子木原一幸
1971.8構成詩「未来を語りつづけて」作・構成:深川宗俊安達元彦
1971.8小さな骨深川宗俊安達元彦
1971.12片足鳥居の映像佐藤敏直
1971青い空は小森香子大西進
1971祈り藤本洋林学
1971川面にひとつ藤本洋高平つぐゆき・いずみたく・林学・山本弘之・林彰雄・亀口豊次・寺沢伸輔
1971Hiroshimaデヴィッド・モーガンデヴィッド・モーガン
1971平和門倉詇林彰雄・坂倉宗雄
1971わたしの広島広島合唱団広島合唱団
1972.2Hiroshima奈良橋陽子石間秀樹
1972.6八月の歌Ⅱ原民喜、山田数子本間雅夫
1972.7平和公園の灯村井和子葦原邦子
1972.9トマト佐藤智子中西英治
1972.12そは人間なりきヴァーツラフ・リードル
1972音楽構成詩劇「一九七二年」名越操尾上和彦
1972ヒロシマジョルジュ・ムスタキジョルジュ・ムスタキ
1973.2愛の歌深川宗俊安達元彦
1973.2すずききよしフォーク・アルバム第2集すずききよし、原民喜、門倉詇すずききよし
1973.6広島霊歌浜本武一三戸頼雄
1973.8生ましめんかな栗原貞子福島雄次郎
1973.8八月の歌Ⅲ本間雅夫
1973モノオペラ「ひろしま」門倉詇(補作:寺原伸夫)寺原伸夫
1974.3交響詩「ながさき」江間章子團伊玖磨
1974.3もしあなたがふくやまゆきおふくやまゆきお
1974.8合唱構成「告発の戦列に」峠三吉、栗原貞子ほか岩田隆則
1974.8朝顔峠三吉監修:今藤長十郎
1974.8一本の鉛筆松山善三佐藤勝
1974.8風よ 月よ 人よ山田数子森山良子
1974.8悲しみの終るときまで岩谷時子いずみたく
1974.8橋はいつも上條恒彦小室等
1974.8原民喜詩集より原民喜観世栄夫
1974.8コンドレー・マンダレー松山善三(韓国語訳:吉屋潤)吉屋潤
1974あの日の広島大越憲二大越憲二
1974幻想曲「ヒロシマは…」佐藤正二郎
1974似島源田えり大西進
1974Hirošimaシュテファン・ラック
1974平和のあけぼの和泉たくみ永井主憲
1974レクイエム「死と焔の記憶」原民喜、峠三吉、木原孝一、栗田素江、渡辺邦秋岡田和夫
1975.2悪魔美輪明宏美輪明宏
1975.5戦争を知らないから山田愛毅榊原政敏
1975.5千羽鶴林春生馬飼野俊一
1975.5届かない手紙なかにし礼吉田正
1975.5ひとは今森脇美奈子團伊玖磨
1975.5広島レクイエム藤田敏雄、岩谷時子いずみたく
1975.5ヨシオ君に何があったん?熊谷勇二團伊玖磨
1975.6平和の町のためにハービー・ハンコック
1975.8合唱構成「灼かれ続けるヒロシマ」岩田隆則・的場よしお岩田隆則
1975.9慟哭山田数子尾上和彦
1975.11私たちがいなくなっても岩谷時子東海林修
1976歩く板谷紀之岡田京子
1975祈りの曲第1「哀悼歌」川崎優
1975死んだ女の子ナーズム・ヒクメット(訳:飯塚宏)すずききよし
1975八月六日峠三吉金藤豊
1975ヒロシマ三戸頼雄
1975ヒロシマによせる四つの詩門倉詇藤家虹二
1975広島のうた外山雄三
1976.5もんぺのかあさん小川洋子平尾昌晃
1976.5橋のうえで上條恒彦小室等
1976.5カンタータ「未来への約束」石本美由起小川寛興
1976.6長崎物語上林猷夫黒髪芳光
1976.7いくさ栗原貞子若草恵
1976.7葦原邦子若草恵
1976.8合唱構成「人間が生き続ける為に」岩田隆則・峠三吉岩田隆則
1976.8泣かないで坊や浜本聡浜本聡
1976.8沖野達成沖野達成
1976.8夏の朝田中ルミ子田中ルミ子
1976.8夏の一日神田光生神田光生
1976.8夏の川城真弓城真弓
1976.8平和を願うけれど野間圭子野間圭子
1976.10まちんと松谷みよ子高岡良樹
1976.12組曲「ひろしま」峠三吉すずききよし
1976統一の道小森香子石原一輝・大西進
1976一つの夏門倉詇岡田鈴美
  • 関連トピック

東海道新幹線開通(1964.10)
第18回東京オリンピック大会開催(1964.10)
米原潜シードラゴン号、佐世保初入港(1964.11)
米原潜「寄港」に抗議する西日本大集会(1965.2)
被爆20周年原水爆禁止世界大会(1965.8)
佐藤栄作首相 訪米と沖縄訪問(1965.8)
米原潜、横須賀初入港(1966.5)
広島市議会、原爆ドームの永久保存を決議(1966.7)
被団協『原爆被害の特質と被爆者援護法の要求』発行(1966.10)
米軍押収中の原爆記録映画、22年ぶりに返還される(1967.11)
佐藤首相米国訪問へ 全学連の抗議デモ隊、警官と衝突(1967.11)
幻の原爆記録映画、初公開(1968.4)
小笠原諸島日本へ復帰(1968.6)
第五福竜丸保存委員会発足(1969.7)
米・ソ、戦略兵器制限交渉開始(1969.11)
政府、核拡散防止条約に調印(1970.2)
日本万国博開催(1970.3)
日米安保条約自動延長となる(1970.6)
仏、ムルロア環礁で核実験(1970.6)
天皇皇后両陛下初めて広島の原爆慰霊碑に参拝(1971.4)
広島・原爆26周年記念式典に初めて、現職佐藤首相が参列(1971.8)
米原子力委アムチトカ島の5メガトン地下核実験を強行(1971.11)
沖縄祖国復帰、27年の米統治に終止符(1972.5)
広島交響楽団プロとしてスタート(1972.6)
原爆と文学の会『原爆と文学』創刊(1972.7)
日中国交回復(1972.9)
原水協「被爆者援護法大綱」発表(1973.4)
広島長崎の被爆資料28年ぶりに米から返還(1973.5)
WHO総会、あらゆる核実験に反対を決議(1973.5)
インド初の地下核実験(1974.5)
原子力船「むつ」で放射能漏れ事故(1974.9)
佐藤前首相にノーベル平和賞(1974.12)
山陽新幹線開通(1975.3)
ABCC28年の歴史に幕、新たに放射線影響研究所としてスタート(1975.4)
原爆に関する極秘メモ、米公文書館から広島市へ(1975.8)
第21回原水爆禁止世界大会で「ヒロシマ・アピール」採択(1975.8)
被爆30周年広島国際フォーラムで核不使用特別決議採択(1975.8)
広島市と長崎市が平和文化都市として提携(1975.8)
久保山愛吉記念碑除幕式おこなわれる(1976.5)
第五福竜丸展示館完成(1976.6)
長崎原爆忌31周年式典に三木首相が歴代首相として初めて出席(1976.8)
米で原爆投下ショー、B-29を使い「広島」を再現(1976.10)
北京放送、水爆実験に成功と報道(1976.11)

  • 概要(『ヒロシマと音楽』から)

 この時期の話題は、何といってもポーランドの作曲家ペンデレツキが作曲した〈広島の犠牲者への哀歌〉で始まる。作曲は1960年とされているが、1964年12月1日、当時の浜井広島市長にメッセージとともに同曲のレコードが献呈されたことから、一躍話題となった。早速東京から音楽評論家を呼び、広島市民にはレコード・コンサートの形で紹介されている。今日では、現代音楽の古典ともいえる作風だが、当時の前衛的手法を駆使した半ば冷ややかな響きは、聴く側にかなりの戸惑いをもって迎えられたようだ。しかし、底流に潜む強烈な人間感情は概ね前向きに評価され、その後も原爆の脅威を象徴するヒロシマの作品として存在し続けている。
前の時期に開花したうたごえ運動はさらに盛り上がりをみせ、1950年代の中頃から『うたごえ歌曲集』が相次いで現れてくるが、1960年代に入ると、各地のうたごえ運動の中で原爆音楽が次々と作詞・作曲されるようになったことが特徴として挙げられる。1965年には長崎うたごえセンターから〈原子野〉や組曲《長崎》が作られ、翌年には、東京うたごえによる作詞・作曲で〈広島から〉が発表されている。つまり、原水爆禁止運動の分裂にもかかわらず、新たな市民運動の広がりと高まりに中で、うたごえ運動と原爆音楽の創作活動が密接に結びついてきた時期といえる。
 こうした流れの中で1974年、広島テレビが企画した「広島平和音楽祭」(古賀政男実行委員長)が、平和をテーマにしてスタートした。当初出演者をめぐるトラブルもあったが、音楽祭には音楽のすべてのジャンルを含む当時第一線で活躍する出演者たちが集合し、人間愛、希望、よろこび、友情、連帯、平和などを歌うとあって、その企画力に大きな注目が集まった。第一回には、ペギー葉山、美空ひばり、上條恒彦、友竹正則、観世栄夫らが出演し、團伊玖磨の指揮する広島交響楽団が共演した。美空ひばりが歌った〈一本の鉛筆〉はここで生まれるが、この曲は以来今日まで静かなブームを巻き起こしている。この「平和音楽祭」は毎年開催され、1994年の第20回まで続く。このシリーズから多くの原爆音楽にかかわる新作が生まれたことは特筆すべきだろう。また、シリーズものとしては、地元の広島交響楽団が「平和の夕べ」と称して慰霊のコンサートを始めたのもこの時期である(1968年、第1回)。
 この時期の代表的作品として、芥川也寸志が大江健三郎の詩に作曲したオペラ《ヒロシマのオルフェ》(1967年)、林光が原民喜の詩に作曲した《原爆小景》(三部作が完成しレコード化、1973年)、森脇憲三作曲の組曲《ひろしま》(1965年)、外山雄三作曲の交響曲《炎の歌》、森脇憲三作曲の男声合唱のためのレクイエム《碑》(1970年)、早川正昭作曲の〈レクイエム・シャーンティ〉(1970年)などが挙げられる。オペラ《ヒロシマのオルフェ》はNHKテレビの委嘱作品で、1960年の〈暗い鏡〉を改題改作したものである。被爆60周年にあたる2005年、広島出身の作曲家、細川俊夫が音楽監督を務め広島では初めて上演された。また、〈レクイエム・シャーンティ〉は、歌詞を伴わない器楽曲であること、尺八という日本の伝統楽器を用いていること、などから海外でも大きな反響を呼び、今でも度々演奏される作品となっている。
 この時期には、いくつかのシリーズものが企画され、多様な広がりと高まりの中、一定期間継続し、独自の展開をとげているのが注目される。

第四期(1977~85年)

発表曲名作詞者作曲者
1977.2八月六日峠三吉宗像和
1977.6あなたの椅子山口洋子平尾昌晃
1977.6ヒロシマあるかぎり竹森真喜男團伊玖磨
1977.6ひろしまの母石本美由起古賀政男
1977.6平和公園大槻明子(補作:石本美由起)大塚博堂
1977.6名前をかいて小森香子大西進
1977.7雲が人々を殺さないようにナーズム・ヒクメット(訳:峯俊夫)高平つぐゆき
1977.8合唱構成「無告の谷間から」岩田隆則ほか岩田隆則ほか
1977.8祈りの曲第2「悲歌」川崎優
1977.9河を流れているような被爆中学生の記録より編詩関忠亮・林光
1977.10八月のヒロシマ高田敏子中田喜直
1977赤い灯ろうを奥田久美子1977年創作講習会第3グループ
1977美しい朝のうた瀬野とし木下そんき
1977オラトリオ「ヒロシマ」尾上和彦
1977花と折鶴大西進大西進
1977母の窓辺みちわたる岩見和夫
1977ひとりになって不詳不詳
1977ひとつの夏に門倉訣園田鉄美
1977ねがいの灯峠三吉宗像和
1977灰が降る三好達治宗像和
1977ひろしま・ながさき不明(宗像和?)宗像和
1978.1祈り山田数子早川正昭
1978.2戦跡ひとりたみへい(編詞:八木たかし)八木たかし
1978.3死んだ女の子ナーズム・ヒクメット(訳:中本信幸)外山雄三
1978.6川に映る町星野哲郎小杉仁三
1978.6歴史石崎勝子(補作:石本美由起)森田公一
1978.7原爆の空砂崎彰子
1978.8ヒロシマというとき栗原貞子ほか岩田隆則
1978.8明日への伝言山川啓介いずみたく
1978.10哀傷 第1番竹西正志
1978.11遠い行列上林猷夫黒髪芳光
1978祈り山本百合子佐藤正二郎
1978夾竹桃の歌高岡良樹高岡良樹
1979.5花ぐるま滝田常晴小椋佳
1979.6相生橋で田村和男(補作:石本美由起)庄野真代
1979.6鐘よ鳴りひびけ横井弘船村徹
1979.6広島県花の旅野口家嗣平井哲三郎
1979.6原爆反対の灯を高く前野秀雄もとぎあきら
1979.8合唱構成「未来はここからはじまる」栗原貞子岩田隆則・窪田聰
1979.10黒い歌村野四郎高橋雅光
1979.10合唱組曲「青く輝く地球のために」埋田昇二木下そんき
1979.12八月の歌Ⅳ青木渡本間雅夫
1979慈仙寺の鼻に鐘がなるイシミツヨシテル大畠雅美
1979小さな骨深川宗俊大畠雅美
1979八月六日の涙橋さかもとひさし大畠雅美
1979ヒロシマの少女グエン・ディン・ティ大畠雅美
1979あなたのなまえはヒロシマ佐々木昌佐々木昌
1979広島原爆養護ホームの歌地京敏信佐藤正二郎
1979ヒロシマの少女の折鶴ヤオホラン・インヘダリザフ・ダッシニャム
1980.5折鶴の歌吉田豊林学
1980.6組曲「ひろしまの詩」洲加本有衣子平井哲三郎
1980.6二人のふる里栗原淳子(補作:石本美由起)吉田正
1980.6明日への希望岩谷時子宮川泰
1980.6平和の組曲岩谷時子宮川泰
1980.8長崎原爆の歌山口悦子ほか寺井一通ほか
1980.8悲しいけれど三木稔
1980.8風化すずききよしすずききよし
1980.10傷だらけの手福田須磨子木下そんき
1980いちめんの焼け野原園田鉄美園田鉄美
1980おりづる吉田豊高田龍治
1980折鶴行進のうた吉田豊石原いっき
1980折鶴のうた吉田豊中島修一
1980折鶴よ世界に吉田豊園田鉄美
1980母さんに花を山家和子大西進
1980『原爆の歌』テーマミュージック山上博史
1980戦争の足音長崎センター合唱団園田鉄美
1980千恵子に捧げるノーモア・ヒバクシャ櫛田フキ中島修一
1980長編詩「ヒロシマ日本人狂詩曲」ドミトリー・ホフマンドミトリー・ホフマン
1980平和へのメッセージ松永勇次松永勇次
1980燎炎の賦原民喜ほか宗像和
1981.5永遠のみどり下畠準三、正田篠枝、栗原貞子、小園愛子、原民喜外山雄三
1981.6命の手紙洲加本有衣子(補作:石本美由起)西脇久夫
1981.6チェロ詩曲「海鳴り」宝木実
1981.8わたしの海と空を瀬野とし木下そんき
1981.8写真の中の友峡草夫山口修
1981.8生命を愛しむ福田須磨子山口修
1981.8原爆句抄松尾あつゆき山口修
1981.8オペラ「はだしのゲン」原作:中沢哲治・台本:清水高範保科洋
1981.8ガラスの風船門倉詇熊谷賢一
1981.8子供らに伝へたい小森香子熊谷賢一
1981.8だれがこしらえたの有馬敲熊谷賢一
1981.11ヒロシマエドモンド・ブランデンホセ・テホン
1981.11八月の歌Ⅴ水野潤一本間雅夫
1981.11合唱組曲「川よとわに美しく」米田栄作三枝成彰
1981.11祈り栗原貞子中村雪武
1981叫び松永伍一伏見竜治
1981鎮魂歌松永伍一伏見竜治
1981平和の譜藤本洋林学
1981連祷「地に平和を」ロバート・ジェイガー
1982.2おばあちゃん山家和子大西進
1982.2草の根の母たち山家和子大西進
1982.2平和シャローム吉川文郎大西進
1982.2ナウ・アンド・ゼンアール・キム
1982.3ぼくらは冬のリトルボーイ飛塚優、深川宗俊高田龍治
1982.3白い翼の鳥にのって加藤千尋御主博実、林善之助、高田龍治
1982.4ヒロシマの空に村中好穂村中好穂
1982.5いま黙っていていいのだろうか藤川健夫木下そんき
1982.5きいてください洲加本有衣子池辺晋一郎
1982.5花は語ってくれるだろうか門倉詇宗像和
1982.6妹よ増岡敏和杉本憲一
1982.6人間を返せ峠三吉杉本憲一
1982.6夾竹桃の子守唄石本美由起團伊玖磨
1982.6組曲「何げない風景」星野哲郎藤原秀行
1982.6広島・市電・街景色三宅立美(補作:石本美由起)因幡晃
1982.6ひとつのプロローグ野崎真立中村雪武
1982.6二つの小品中村雪武
1982.6組曲「おこりじぞう」山口勇子くらだゆうじ
1982.7蔓びる影津田欣二遠藤雅夫
1982.7祈り富永三郎
1982.8広島が言わせる言葉原民喜新倉健
1982.8新原爆小景あるいは平和の使徒たちのパレード原民喜林光
1982.9音楽構成詩「嘉代子ざくら」小森秀子林彰雄
1982.9八月の歌Ⅵ徳納晃一本間雅夫
1982.9八月の歌Ⅶ峠三吉本間雅夫
1982折り鶴梅原司平梅原司平
1982音楽構成詩「ヒロシマからニューヨークへ」熊谷勇二大西進
1982にんげんをかえせ峠三吉中田信次
1982Hiroshimaジュリウ・ベルトーク
1982ヒロシマというとき栗原貞子ウド・ツィンマーマン
1982ひろしまのうたエーディス・シトウェル/エドマンド・ブランデンマルコム・ウィリアムソン
1982広島のおこり地蔵成瀬左千夫寺西敏雄
1983.3永遠のみどり原民喜原守夫
1983.4水 第一宗像和
1983.4人工の星の落下アーネスト・トッド・リチャードソンアーネスト・トッド・リチャードソン
1983.7AUGUST 1945三木稔
1983.7ヒロシマゲイリー・ムーアゲイリー・ムーア
1983.7祈りⅡ富永三郎
1983.8歌曲集「ヒロシマのツル」西岡光秋黒髪芳光
1983.8雲に人間を殺させるなナーズム・ヒクメット(訳詩:中本信幸)外山雄三
1983.8オラトリオ「鳥の歌・ひろしま」原民喜ほか尾上和彦
1983.8黒い雨宮川泰
1983.8おわりのない朝1945.8.6助川敏弥
1983.9オペラ「おこりじぞう」台本:金子静江尾崎敏之
1983.11祈りの虹峠三吉、金子光晴、津田定男新実徳英
1983.11?折鶴のとぶ日小森香子浜名政昭
1983.11?墓標峠三吉外山雄三
1983悲しみのドーム弧響高橋雅光
1983雲ものがたり寺井一通寺井一通
1983群炎Ⅵ「樹の詩」熊谷賢一
1983死せる広島を偲べる哀歌黒住彰博
1983CHINKON-KA原民喜細川俊夫
1983八月六日峠三吉杉本憲一
1983ヒロシマの有る国で山本さとし山本さとし
1984.3生命中島克磨
1984.3即興曲Ⅰ「カプリチオ」高橋雅光
1984.3ピアノソナーロ「エテルナ」浅川春男
1984.3被爆者の葬煙金藤豊
1984.3語り部の女あきたかしあきたかし
1987カオス水野修孝ほか水野修孝
1984.8追憶の川栗原貞子葦原邦子
1984哀歌中山義徳
1984独奏曲「寂」早川正昭
1984ブロークン・アローの歌山田かん園田鉄美
1984無数の広島BIMBOBIMBO
1985.1Unis Vers L’uniミシェル・ジョナスミシェル・ジョナス
1985.7構成「平和の旅へ」園田鉄美ほか園田鉄美ほか
1985.7おこりじぞう山口勇子高岡良樹
1985.7太き骨は正田篠枝中村雪武
1985.8ある女絵かきの詩中山千夏小室等
1985.8花園にて台本:ふじたあさや三木稔
1985.8広島レクイエム糀場富美子
1985.8カンタータ「みどりの炎」栗原貞子ほか外山雄三
1985.8オラトリオ「鳥の歌」原民喜ほか尾上和彦
1985.8めぐり来る原爆の日に園田泰子園田泰子
1985.9あなたへ夢丘薫山内秀夫
1985.9三つのフーガ寺原伸夫
1985.10交響曲第6番「HIROSHIMA」エドマンド・ブランデン團伊玖磨
1985組曲「夢千代日記」早坂暁吉田正
1985「原爆詩集」にんげんをかえせ峠三吉黒住彰博
1985さくらよ山本奈美山本奈美(補作:高田龍治)
1985地球のためのレクイエム門倉詇高田龍治
1985ねがい安藤シゲ子小川寛興
1985八月のうた木下そんき
  • 関連トピック

米カーター大統領、3~4年間の核実験全面停止をソ連に提案したと発表(1977.2)
佐世保市議会、原子力船「むつ」受け入れ決定(1977.4)
NGO被爆問題国際シンポジウム開会(1977.7)
原水爆禁止統一世界大会、14年ぶりの統一大会となる(1977.8)
米国防省、核実験に参加した復員軍人30万人の放射能被曝調査を指示(1978.2)
ジュネーブでNGO軍縮会議開催(1978.2)
米、ビキニ放射能汚染から住民の強制再移住を決定(1978.4)
初の国連軍縮特別総会開催、日本から500名の代表団が2018万の核兵器禁止署名をもって参加(1978.5)
核兵器完全禁止・被爆者援護原水禁世界大会開催、長崎大会は15年ぶりの統一大会となる(1978.8)
東京都庁で初めての「広島・原爆記録展」開催(1978.10)
第1回国連軍縮週間はじまる(1978.10)
反核アニメ『ピカドン』完成(1978)
広島平和文化センター及び広島平和教育映画ライブラリー共催の原爆映画上映会開催(1979.5?)
原爆問題総合広島研究会発足(1979.7)
米、スリーマイル・アイランド原発事故(1979.3)
憲法学者ら17氏「非核三原則法案」を発表(1979.4)
米・ソ、SALTⅡ調印(1979.6)
初の国産濃縮ウランの生産開始(1979.9)
モスクワオリンピック大会にJOC不参加決定(1980.5)
パリでユネスコ軍縮教育世界会議開催(1980.6)
原水爆禁止世界大会、東京・広島・長崎で開催、SSDⅡにむけて8項目緊急行動をよびかける「東京宣言」採択(1980.8)
イラン・イラク戦争勃発(1980.9)
映画『青葉学園物語』完成(1980.11)
ローマ法王ヨハネ・パウロ二世が広島入りし原爆慰霊碑に参拝(1981.2)
日本原子力発電敦賀1号機原子炉から放射能漏れ(1981.3)
米原潜、東シナ海で当て逃げ、日昇丸沈没(1981.4)
広島平和記念館が原民喜の没後30周年回顧展(1981.7)
レーガン大統領、中性子爆弾製造を決定(1981.8)
ドイツ、ボンで反核集会(1981.10)
SSDⅡにむけて、核兵器完全禁止と軍縮を要請する国民運動推進連絡会議発足(1981.11)
文学者287名が「核戦争の危機を訴える文学者の声明」を発表、以後、美術家、音楽家、写真家、演劇人らの反核声明あいつぐ(1982.1)
10フィート運動の入手フィルム、広島で初公開(1982.1)
映画『ヒロシマ・ナガサキ—核戦争のもたらすもの—』完成(1982.3)
「平和のためのヒロシマ行動」に20万人が参加(1982.3)
「反核・日本の音楽家たち」が東京で総会(1982.3)
第2回国連軍縮特別総会開催(1982.6)
コンサート「反核・日本の音楽家たち」開かれる(1982.6)
核戦争映画『ザ・デイ・アフター』公開(1983.11)
ノーベル平和賞のマザー・テレサ、広島市訪問(1983.11)
カール・セーガン「核の冬」を警告(1983.12)
『ヒロシマ・ナガサキ—核戦争のもたらすもの—』ビデオ版完成(1984.7)
広島市議会、「核兵器廃絶広島平和都市宣言」を全会一致で決議(1985.7)
第1回世界平和連帯都市市長会議が広島市で開幕、海外22カ国64都市、国内31自治体の市長ら代表200人が参加し、国境を越えて市民連帯を討議(1985.8)
被爆40周年平和祈念式海外から49社の報道陣が8・6式典など取材(1985.8)
「愛と平和」をテーマに第1回国際アニメーションフェスティバル広島大会開催(1985.8)
「核戦争を防ぐための国際医師会」がノーベル平和賞受賞(1985.12)

  • 概要(『ヒロシマと音楽』から)

 この時期は、前の時期に分裂した原水爆禁止運動が再統一され、国連への核兵器禁止要請署名運動が始まった時期である。また、社会的には、被爆体験の国際化が指摘されているが、音楽の分野でもそのような傾向を顕著に見ることができる。例えば、英国の詩人、エドモンド・ブランデン(元オックスフォード大学教授)の「ヒロシマ1949年8月6日に寄せて」という詩を合唱曲にしてほしいという広島市からの要望にこたえて、英国の王室付作曲家マルコム・ウィリアムソンが作曲し、それを広島の児童合唱団が初演している。ブランデンは駐日英国大使館教育顧問として来日中、1948年に広島を訪れ、目に焼きついた印象を詩に託し、同49年広島市に寄贈している。寿岳文章により「ヒロシマよりも誇らしき 名をもつまちは 世にあらず」と翻訳されたこの詩は、すでに山田耕筰や地元エリザベト音楽大学のホセ・テホン元学長の手によっても作曲されている。テホン元学長の作品は、1981年2月に広島を訪れたローマ法王ヨハネ・パウロ二世からの要請で実現したもので、同大学の定期演奏会で披露された。また、広島市に寄贈されたまま13年間眠り続けていたドイツの作曲家フォレストのオペラ《広島の花》が、地元の演奏家の力で初演されたり、イタリアの指揮者アバドが、ベルリオーズの《幻想交響曲》の録音に際して、終楽章に広島の式典で用いられる「平和の鐘」を使用したのも話題をまいたところである。米国の著名な指揮者バーンスタインが、被爆後40年にあたる1985年、14カ国の音楽家、楽団員400名とともに広島を訪れ、自作の交響曲第三番《カディッシュ》や糀場富美子作曲の〈広島レクイエム〉などを演奏して、自らの音楽家としての信念を明確に示したことも忘れられない。同氏はアテネ、ブタペスト、ウィーンでも同様のコンサートを企画し、一連の旅を自ら「祈りの旅」と称している。
 さらにニューヨークでは、第2回国連軍縮特別総会を前にして、反核・軍縮を訴える音楽祭「日本の音楽の夕べ」が開催され、〈原爆を許すまじ〉を初めクラシック、ポピュラー、邦楽などの原爆音楽が演奏されている。ただし、そのとき報じられたアメリカ人が会場に少なすぎるという実態はどう捉えればよいのであろうか。軍縮総会に刺激され、自ら室内楽を結成して平和コンサートを開いたジュリアード音楽院教授のピアニスト、井上和子も自らの人脈を頼って、個人レヴェルで原爆音楽の紹介に努めている。このシリーズは後数回続くが、この会ではアメリカの作曲家デヴィッド・ローブの《琴とバイオリン、ピアノのための三曲》が初演された。そのほか、栗原貞子の詩に、ドイツ人のツィマーマンが曲をつけた〈ヒロシマというとき〉が広島で初演されたり、日本語の反核ソング〈無数のヒロシマ〉がインドネシアで流行したり、アメリカのフォーク歌手シャーリン・ゲッディスが作詞作曲した〈ヒロシマ〉〈二度と再び〉が披露されたりしている。これらは一様に国際的広がりの中で反戦、反核、平和を訴え、ヒロシマの心を世界に発信するねらいを持つ点で共通している。
 この時期にも新作が相次いで登場している。中でも大きな話題をまいたのは、オペラ《はだしのゲン》の広島・沖縄公演の成功である。中沢啓治原作、清水高範台本、保科 洋作曲による二場六幕のオペラは、被爆都市としての広島の印象を強くアピールすると同時に、子供から大人まで理解しやすい平易な内容で大きな成功をもたらした。これに続いて東京では、《おこりじぞう》がオペラ化され話題をよんでいる。
 そのほか注目すべき作品として、林光の《新原爆小景》、尾上和彦のオラトリオ《ヒロシマ》、本間雅夫の《八月の歌》シリーズ、などが挙げられる。尾上の作品は峠三吉、林の作品は、前シリーズ同様、原民喜の原爆詩に基づいている。
 地元広島の音楽活動としては、前の時期に始まった「広島平和音楽祭」が中央からポピュラー界、クラシック界の大物スターたちを呼んで順調に回を重ねている。毎回テーマを決め、一般から歌詞を公募して賞を贈るなど、企画も凝っており、多くの聴衆を魅了したのもうなずける。このシリーズから新作が次々と生まれ、後々歌い継がれているものも少なくない。故芝田進午を代表とする「原爆犠牲者にささげる音楽の夕べ」もこの時期に始まっている。こちらの方は原爆音楽の系統的な紹介が大きな特徴で、ようやく原爆音楽に対する意義が明らかにされ、学究的な取り組みが始まったといってもよい。一方、東京では、芥川也寸志の呼びかけによる「反核・日本の音楽家たち」というコンサート・シリーズが始まっている。邦楽、クラシック、ポピュラーの分野にわたる幅広い原爆音楽が紹介されているが、広島でも「広島国際平和コンサート」という名称で開催された。

第五期(1986~95年)

発表曲名作詞者作曲者
1986祈りの舟石本美由起吉田正
1986組曲「ノーモア・ヒロシマ」オルガ・クチノッタ
1986原爆で死んだ幸子さん栗原貞子中村雪武
1986祈りの曲第3「広島の詩」川崎優
1986合唱組曲「いのちのあゆみ」浅尾忠男大西進
1986祈りも哀し藤哲生越智三郎
1986グロリアウーヴェ・ロアマン
1986無伴奏チェロ組曲尾上和彦
1986生きてこの世にある限り田村和男佐伯金次郎
1986広島原爆犠牲者への献呈D.ステファニーデス
1986平和行進曲石倉喜代道池田祐孝
1986青い閃光草間透本間雅夫
1986あの星はぼく名越操木下航二
編曲:高田龍治
1986新しい朝の出発に名越操高田龍治
1986デルタ交響詩米田栄作吉田盈照
1986.11合唱組曲「川よ とわに美しく Part 2」米田栄作三枝成彰
1987.9わたしの希望夢丘薫山内秀夫
1987折鶴(戦争と平和)浅川春男浅川春男
1987八月の山田数子宗像和
1987被爆者の想い出井知恵子アレキサンダー・ラパポート
1987原爆忌浅野逍風アレキサンダー・ラパポート
1987ヒロシマ・ナガサキからのアピール提唱推進協議会起草高田龍治
1987HELP OUR CHILDRENJames BarrowJames Barrow
1987生命の木、空へ林光林光
1987.5合唱組曲「石の焔」清水亨太郎、小園愛子、大岡信、米田栄作遠藤雅夫
1987ヒロシマという名の少年武満徹
1987水 第二宗像和
1987地球の夜明け斎藤範雄熊谷賢一
1987子どものための音楽劇「かあさんのうた」関山昭子大西進
1987PEACE WAVE橋本のぶよ松永勇次
1987WOW WOW WOW松井五郎玉置浩二
1988螢の家宮川泰
1988永遠のみどり原民喜助川敏弥
1988ぼくたちはヒロシマの鳥土屋清高田龍治
1988君を守りたいピースバード・オールスターズ
1988メッセージⅡ峠三吉髙嶋みどり
1989独奏曲「八月の修羅」早川正昭
1989ヒロシマ・レクイエム細川俊夫
1989黒い雨中村栄金光威和雄
1989庭うるしの花石井しげお藤沢一三
1989ドームのうた石井しげお大西進
1989広島山河福富康佐藤正二郎
1989世界の命=広島の心原田東岷藤掛廣幸
1989みんなの指で字をかこう岩田宏園田鉄美
1989映画『黒い雨』葬送音楽武満徹
1989核の恐怖アリス・クーパー
1989正義の味方ピースバード・オールスターズ
1989核の再生ヴァンゲリス
1990ドームの日陰みちわたる岩見和夫
1990愛のコスモスみちわたるみちわたる
1990広島不虚米田栄作ほか黒住彰博、永井主憲ほか
1990おこりじぞう山口勇子高田龍治
19901945年の彼方にTHE KIDS
1991住吉さん峯陽糀場富美子
1991ふるさと・広島みちわたるみちわたる
1991祈り金藤豊
1991水 第三宗像和
1991水 第四宗像和
1991群炎Ⅴ「祈りと希望」熊谷賢一
1991飯泉昌子中山義徳
1991HIROSHIMA加藤登紀子加藤登紀子
1991とうろう流し峯陽糀場富美子
1991小倉・長崎の子守歌六角彰六角彰
1991ヒロシマの千羽鶴田村和男佐伯金次郎
1991ヒロシマは碑のまち田村和男佐伯金次郎
1991ナガサキのまなざし山本さとし山本さとし
1992水 第五宗像和
1992ヒロシマのレクイエム大江光
1993水 第六宗像和
1993合唱組曲「にのしまは」大野充子ほか大西進
1993虹よ永遠に橋爪文中村雪武
1993広島の空さだまさしさだまさし
1994陽だまり久保たかし久保たかし
1994八月には黒い羽根を長谷川敬藤井修
1994あさがお佐々木淑子安藤由布樹
1994合唱組曲「くすのきの詩」園田鉄美、つだけいこ園田鉄美
1994エレジー・サダコ豊田清史F.ザリツカヤ
1994いのちかがやいて石本美由起あきたかし
1994交響曲「ひろしまのピカ」ホルヘ・サルミエントス
1994お爺ちゃんの銀時計はらみちを北林康彦
1994みんなみんなみんな金子太一藤村記一郎
1994風花門倉詇高田龍治
1994ユカタの少女田村和男佐伯金次郎
1995八月の歌Ⅷ青木渡本間雅夫
1995私のひろしま山内秀夫板谷隆
1995悲しくて透明になった音楽久留智之
1995ヒロシマに捧げる即興曲坂田明
1995ひろしまから始めよう筧章男原田真二
1995交響詩「広島・太田川によせる三章」伴谷晃二
1995佐々木淑子安藤由布樹
1995夏の散乱三善晃
1995Fanfare for Hiroshima池辺晋一郎
1995繰り返さないでホセ・ベゲロアリシア・バローニ
1995ヒロシマホセ・ベゲロアリシア・バローニ
1995ヒロシマは祈りの言葉高野太郎
1995ヒロシマ忘れえぬ町ユパンキ(補:大竹史朗)大竹史朗
1995ひろしま希望の鐘橋本勇夫
1995広島の空にむかって宮川義雄宮川義雄
1995白い道・黒い雨マル・ウォルドロン
1995長崎の祈り峯陽中島はる
1995平和讃歌
  • 関連年表

チェルノブイリ原子力発電所で炉心溶融事故(1986.4)
レーガン米大統領、日米開戦日を真珠湾追悼の日とすると宣言(1986.12)
ソビエト、核実験を停止(1986、翌年再開)
米・ソ、中距離核戦力全廃条約に調印(1987.12)
ソビエト、クラスノダール原発の建設を中止(1988.1)
原爆資料館の入館者が通算3000万人を突破(1988.2)
福島第2原発で破損事故(1989.1)
「昭和」から「平成」と改元(1989.1)
映画『ヒロシマ・母たちの祈り』完成(1990.3)
湾岸戦争勃発(1990.8)
東西ドイツ統合(1990.10)
ソビエト連邦消滅(1991.12)
関西電力美浜原子炉で破断事故発生(1991.2)
原爆資料館の東館オープン(1994.6)
阪神淡路大震災(1995.1)
米スミソニアン博物館の原爆展中止(1995.1)
被爆50周年「ヒロシマと音楽」コンサート開催(1995.8)
フランス、ムルロア環礁で地下核実験(1995.9)
福井県敦賀市の高速増殖原型炉もんじゅでナトリウム漏れ事故発生(1995.12)
「ヒロシマと音楽」実行委員会発足(1995)

  • 概要(『ヒロシマと音楽』から)

 被爆40周年には内外で大きな音楽的催しが目立ったが、その後も国際化の傾向はますます加速する。前の時期と違う点は、被爆という問題が広島や長崎の特殊現象としてだけでなく、人類共通の問題として認識され始めたことである。その背景には、1986年のチェルノブイリ原発事故などがあって、より身近なところで生命の危険を再認識させられたことも否定できない。音楽でも、広島という壁を越えた幅広い国際的な広がりを見ることができる。93年には、ロシアからキリーロビッチが民族楽器バヤーンを携えて、広響の「平和コンサート」に登場した。協演した曲目はダニーロビッチが87年、原発事故と人間の闘いをテーマにして作曲した《シンフォニー・ロブスター》で、ヒロシマの願いをはっきりと確かめることのできる意義深いコンサートであったといえよう。佐々木貞子さんを悼む哀歌〈エレジー・サダコ〉がロシアと日本の合作で作られたのも興味深い。
この時期には、地元のオーケストラ広島交響楽団の活躍が目立っている。1991年にはウィーン公演が実現し、中国地方唯一のプロ・オーケストラとして足場を確かなものにしている。翌年にはポーランドの作曲家ペンデレツキが来広し、広島交響楽団を相手に自作の〈ヒロシマの犠牲者への哀歌〉を指揮している。また、ナチスの犠牲になった少女を歌い一躍名をはせたポーランドの作曲家ヘンリク・グレツキの交響曲第三番《悲歌のシンフォニー》の広島初演を果たしたのも広島交響楽団である。この広響定期にはチャイコフスキーの交響曲第三番《ポーランド》も演奏され、愛と平和をテーマにしたコンサートの締め括りに相応しいものであった。
 地元オーケストラの活動に象徴されるように、この時期の国際化では、広島の演奏団体の海外進出が目立っている。崇徳高校グリークラブは、米国、ニューヨーク市にあるカーネギーホールで公演を行い、峠三吉の詩による〈ヒロシマ〉[おそらく髙嶋みどり《メッセージⅡ》の誤り]などを演奏して、平和のメッセージを歌で伝える役割を果たした。
 この時期に広島を訪れた音楽家たちに、ヒロシマを意識した曲目や発言が相次いできたのも大きな特色である。フランスの代表的なシャンソン歌手ジャクリーヌ・ダノはレパートリーに〈ヒロシマ〉を入れているし、指揮者シノーポリは、公演を前にして「音楽は文化であり、文化の創造というのは、人間が存在する理由について考え続けることだと思う」と述べている(中国新聞、1988年10月1日)。
 この時期にもかなりの原爆作品が作曲されている。遠藤雅夫の合唱組曲《石の焔》、細川俊夫の《ヒロシマ・レクイエム》、林光の《生命の木、空へ》、フランス人フェリェ・ジョルダンの《レクイエム(嵐)》、地元からは小玉好行の《撫子》などがある。小玉好行の作品は、疎開先の子どもと親との手紙のやりとりで構成され、当時の状況を知る貴重なドキュメントとしての価値も持っている。

第六期(1996~2005年)

発表曲名作詞者作曲者
1996広島へ三浦錦熊谷賢一
1996ヒロシマの鐘田川
1996絃の声佐伯優、沢井忠夫
1996ひろしま希望の夜明け橋本勇夫
1996お弁当箱ひらのりょうこ小林明
1996永遠の誓い成瀬左千夫寺西敏雄
1996虹の民訳:山ノ木竹志ピート・シーガー
1997合唱組曲「妻よ子よ」萩原忠重喜納政一郎
1997トクちゃんとシロはらみちをあきたかし
1997折り鶴工藤イト森川睦巳
1997風よとどけて長田純一長田純一
1997憶えています今正秀高田龍治
1997FROM HIROSHIMAHAGGYHAGGY
1997つぶやき植野洋美植野洋美
1998いのちかがやいて石本美由紀あきたかし
1998アルドリメールヒロシマ訳:三澤純高田龍治
1998音楽物語「撫子」小玉好行
1998家なき子のクリスマス原民喜宗像和
1999.7広島の悲しみと祈り峠三吉・皆田正明皆田正明
1999ひまわりは何をみたはらみちをあきたかし
1999水と詩伴谷晃二
1999.12合唱組曲「長崎小景」峯陽中島はる
1999失わざるべき記憶飯島俊成
2000平和の鐘を鳴らそう皆田正明皆田正明
2000We Love Peace And Earth山上茂典山上茂典
2000未来の風松村春菜松村春菜(編曲:大島ミチル)
2001.10Hyper requiem徳永崇
2001夏の響き橋爪文中村雪武
2001アオギリ藤田真藤田真
2001.8永遠のみどり原民喜林光
2001.11広島の歌
2001ヒロシマそして終焉から秋吉敏子
2001構成劇「一九四五年八月六日」峠三吉三枝成彰
2002あなたに会えるまち和多田さち子皆田正明
2002ねがい大洲中学校3年有志・編:山ノ木竹志高田龍治
2002希望の灯訳:山ノ木竹志I.ウィリック
2002組曲「島」近藤浩平
2003かえってきたつりがね山上茂典山上茂典
2003Poison Mushroom藤倉大
2004半田亨雄(信司)冬木透
2004おりづる藤井園子
2005広島の原爆犠牲者に捧ぐウーヴェ・ロアマン
2005未風化の七つの横顔糀場富美子
2005ちちをかえせははをかえせ峠三吉横井久美子
2005ひろしまの夏神戸美和子五十嵐健作
2005ヒロシマ・声なき声細川俊夫
2005被爆アオギリ百万本あきたかしあきたかし
2005いのちをかけて武藤昌代・藤村記一郎藤村記一郎
2005.8ヒロシマ・ナガサキへのボレロ園田鉄美モーリス・ラヴェル
2005ANSWERMetisMetis
2005ピコ・ワールドⅡ植野洋美
2005爆忌多田富雄多田富雄
2005.5起点木島始信長貴富
2005歌曲集「魔のひととき」原民喜金光威和雄
  • 関連トピック

広島の原爆ドームがユネスコの世界遺産に指定される(1996.12)
東海村の動力炉・核燃料開発事業団で火災・被曝事故(1997.3)
日本、CTBT(包括的核実験禁止条約)を批准(1997.7)
インド、核実験(1998.5)
パキスタン、地下核実験(1998.5)
敦賀原発で一次冷却水漏れ事故(1999.7)
東海村で臨界事故(1999.9)
ドイツ、原発の廃止を決定(2000.6)
映画『核のない21世紀を』完成(2001.2)
「ヒロシマと音楽」実行委員会解散(2002.3)
「ヒロシマと音楽」委員会発足(2002.11)

  • 概要(『ヒロシマと音楽』から)

 この時期の活動として、手前味噌ではあるが、まず被爆50年を契機に始められた「ヒロシマと音楽」実行委員会の活動を挙げなくてはならないだろう。中国放送の支援を得て、学識経験者、広島市諸機関の関係者、中国放送のスタッフで構成された実行委員会は、二つの大きな目的を掲げることになった。ヒロシマに関わる音楽のデータベース化とそれらの音源化である。データベースの作成は、既存のリストをベースにして、多方面にわたる原爆音楽の掘り起こしを行い、作曲者や演奏者の手元で眠り続けている未登録のデータを収集し、順次リストアップしていく作業で、困難を極めるものであったが、2002年の実行委員会の解散時には約1800曲を登録することができた。一方の音源化の作業も、毎年コンサートを開催し、新旧のヒロシマに関わる音の収録を行ってきた。この委員会は、その後民間の有志による「ヒロシマと音楽」委員会に受け継がれ、音源化の仕事は終えることになったが、データベース化の作業は継続され、2004年当初の念願でもあった広島市への寄贈が実現し、1867曲の資料が広島平和文化センターに引き渡された。これによりこれまでの仕事は一応終止符を打つことになった。「ヒロシマと音楽」のデータベースは、これまでも中国放送のホームページから検索することができたが、今後は広島市の「平和データベース」のホームページ上から容易に検索が可能となり、音源や楽譜の有無、所在等を確かめることができるようになった。これまで情報を手に入れにくかった一般の音楽愛好家や演奏家にとって朗報となるであろうし、適切なものは教材として検討することも可能となった。
 ところで、前の時期に確認された国際化の傾向はますます拡大すると同時に、市民レヴェルでの活動なども加わって、いっそう一般化、大衆化の傾向をみせていく。60周年を迎えた2005年の地元の新聞をめくってみても、米国(シアトル)、ドイツ(ベルリン)をはじめ、これまで見られなかったドミニカ共和国やウルグアイなどでもヒロシマの歌が響き渡っている。一方、広島では8月6日を中心に、大小さまざまなコンサートが催され、枚挙に暇がないほどである。出演層も子どもから大人まできわめて幅が広い。目に付くものを挙げてみると、「ヒロシマの響き~未来への追憶」(7月6日)、「被曝60周年を悼む コンチェルト スピリトゥアーレ」(7月16日)、「平和教育プロジェクト〈スレノディ〉演奏会」(マリー・シェファー作曲 7月30日)「慰霊の夕べコンサート」(8月5日)、PEACE MUSIC WORLD(8月5日)、「広島平和コンサート2005」(佐渡裕ほか8月6日)、「ヒロシマ60」(8月6日)、「南こうせつin世界平和祈念聖堂」(8月7日)、「林光・東混~八月のまつり」(8月6日)、「平和コンサート 6人のチェロの響き」(8月6日)、「広島観音高校音楽部OB合唱団祈念コンサート」(8月7日)、「ピカドン竹やぶ」(はらみちを作 8月7日)「No More War~愛の祈り」(高校生バンド8月14日)、「被爆60周年を祈念して~七つの川から七つの海へ」(9月19日)、「世界へおくる平和のメッセージ」(小澤征爾ほか 10月21日)、「日本のうたごえ祭典 in ひろしま」(11月4日~6日)など。これらのコンサートで取り上げられる曲は、新・旧のいわゆる原爆音楽のほか、音楽史上の鎮魂や平和に因んだ名曲が選ばれている。これらの中で広島出身の作曲家、細川俊夫が音楽監督を務めた「ヒロシマの響き」では、芥川也寸志の《黒いオルフェ》(広島初演)と自作の《ヒロシマ・声なき声》(本邦初演)が演奏され注目された。作曲者による研ぎ澄まされた祈りのメッセージはもとより、広島交響楽団と地元の演奏陣の奮闘もあって、原爆作品の質の高さが証明されたといっても過言ではないだろう。「慰霊の夕べコンサート」では、ドイツの作曲家ウーヴェ・ロアマンの〈ヒロシマの原爆犠牲者に捧ぐ〉が世界初演された。佐渡裕が広島交響楽団と世界の若手演奏家で編成する管弦楽団を指揮した「広島平和コンサート2005」では、女優の吉永小百合のほかチェリストのマイスキーなど内外の有名演奏家が出演し、故バーンスタインの交響曲《カディッシュ》、〈広島平和の歌〉などを演奏した。この模様は放送メディアを通して全国に中継され、多くの人々の間で「ヒロシマと平和」というキーワードを共有することができたと思われる。同じことは「世界へおくる平和のメッセージ」でフォーレの《レクイエム》を指揮した小沢征爾のコンサートでも言うことができる。平和イベントと称するこのコンサートは早くからの宣伝効果もあってか、大会場のチケットがまたたくまに売り切れとなってしまった。小澤は言う。「われわれが死に絶える前に、薄れ行く原爆の記憶と平和の祈りをこれからの命に伝えたい」と。これらのコンサートは、有名人によるイベント的側面をもっているが、音楽によるメッセージは確実に聴衆の心を揺り動かしたはずである。このような話題性の多いコンサートのほかに、一貫してヒロシマにこだわり続け、原爆音楽活動の幹になっている作曲家や演奏団体も多様化しつつある。バンドによる平和ライブを試みる高校生は「自分たちのスタイルで多くの人に平和を訴えたい」と主張する。被爆60年の夏、ドイツで追悼演奏会の企画構成にかかわったペーター・ハウバーは、「音楽で人道的な心を開き言葉でメッセージの意図を伝える」と述べている。永井博士の著作から暗示を受けて「スレノディ」を作曲したカナダの作曲家、マリー・シェーファーは、60周年の記念日を前に広島を訪れ、「音楽を通じ、惨事を乗り越えて平和に生きることを祈りたい」と訴える。

第七期(2006年~)

[改定作業中]