小倉・長崎の子守歌
このように、二つの市民公募への応募作品だけでも1800点近くにのぼっていることがわかる。もちろん、被爆の翌年に行われた公募では、全国から12000通余りの応募があった(注1参照)ことを考えると、この数ははるかに少ない。しかし、被爆から半世紀を過ぎて、ヒロシマを「音楽」によって語り継ぐ活動にこれだけの数が参加した意味は大きい。
さらに、「公募」という外部からの呼びかけに応じてではなく、自発的にヒロシマを音楽に託した市民も数多くいる。例えば、東京で活動するアマチュアのロックバンド「レイキャビック」は、〈HIROSHIMA CRISIS 2004~ロックによる祈り~〉という作品を作り、毎年8月にライブで歌う(注5)。また、福岡のアマチュア演奏家は、被爆瓦を使って作った横笛で自らが創作した被爆者の鎮魂歌〈小倉・長崎の子守歌〉を地元の音楽祭で披露した(注6)。この他、プロの手を借りている例も含めれば、原爆に関わる音楽を市民が作り出している事例は枚挙にいとまがないのである。
(注6) 朝日新聞1991年10月6日記事より。

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